学校の授業のほとんどが、ただ覚えるというものである。子供の記憶力というのは、すばらしく砂に水が染み込むようにどんどん記憶していく。しかし、覚えてそれで終わりで良いのだろうか。それよりも、「なぜ?」を考えさせることのほうが大事だと著者は述べている。本書には考えることの大切さが書かれている。
親と子の会話によって[よのなか]のことを学んでいく。そして、会話の中で「問いかけ」「問いかけられる」ことによって、「考える力」が養われていくのだ。
子供にとって一番身近なものは恐らく学校だろう。子供は、学校でいろいろなことを習ってくる。正確には覚えてくる。この覚えてきた事実に「なぜ」を問いかける。そして一緒に考える。これを繰り返していくのだ。この目的は正解を探すことではない。考える癖をつけるのが狙いだと言う。まず自分の頭で考え、自分なりの結論を出し、それを自分の言葉で表現すること。正解かどうかが問題なのではない。その過程が大事なのだ。
では父親にとって一番身近な話題はなんだろう。恐らく会社や仕事のことではないだろうか。父親は子供の前であまり仕事の話はしないだろうし、子供にとっては少しわかりづらい話題だ。そこで、父親持っている知識と経験にちょっとした演出を加えるのだ。すると子供たちは、考え、意見を述べ、そして自分の行動を環境に合わせて変えていくことを学んでいく。こうして父親の問いかけから始まったやり取りは、子供たちの「考える力」を鍛えるだけでなく、何か一つの物事が起こったとき、次に起こることを類推するのに必要な「先を読む技術」にもつながっていくだろう。
子供は突飛な仮定に基づいた疑問をよく発する。そういった疑問に付き合うのは正直言って面倒極まりないが、ここが大事な勝負どころだと著者は言う。一度でも子供の言葉を全否定したり、一蹴してしまえば、素直に疑問を発する子供の気持ちが萎縮してしまうかもしれないからだ。それは彼らの人生全体に影響が及ぶほど大きい。そして、そういった子供の疑問と付き合うことは、大人が「常識」として前提にしてしまっていることの本来の重要度や意義を見直す、いいキッカケになるだろう。
最後に、物事の本質を冷静に見極めるために必要なモノサシ。つまり、関係性を考える力、何のためにやるのか、どのようにやるのかを考える力、どれくらい危険があって、どうすればそれに備えられるのかを考える力、かかる費用と得られる成果との関係を考える力、目に見えている現象の背景になっている歴史的事実についても考える力のことだ。こういったことを子供に身につけてもらうにはどうしたらよいのだろう。そのためには、身近な材料をもとにして会話を展開することが必要なのだ。
著者は子供にいつも、答えが正しいかどうかが大事なんじゃなくて、自分はこう思うということをちゃんと言えることのほうが大事なのだと言っているという。自分自身で「考える力」だけが、納得できる答え、あるいは“腑に落ちる”仮説を提供してくれるのだ。
親と会話をすることで、子供が自然に[よのなか]を知っていく。その会話の中で子供たちは、「考える力」を身につけていく。これは、とても理想的な総合的学習と言えるのではないだろうか。総合的な学習とは、ただ覚えるだけの授業や正解を探すことを目的とした授業ではない。自分の頭で考え、自分なりの答えを出す。これを目的とした授業ではないだろうか。用意された正解ではなく、自分で考え、自分だけの答えを出すことが大事なのだと思う。だから、「考える力」を伸ばすことは必要なのだ。子供はそのことを意識していない。「問いかけ」「問いかけられる」ことで「考える力」が鍛えられていく。ただ会話をしているだけのようにも見える。しかし、「考える力」というのは、授業の中だけで鍛えられるのではない。日常の親と子の会話。それが、子供たちの「考える力」を鍛えるのに大きく関係しているのではないかと私は思う。
本書では、分からないことではなく、自分にとって身近な話題。それが会話の材料になっていた。難しいことではないのだ。まずは、問いかけることから始めてみてはどうだろうか。
|