優秀賞 「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」
(毛利展子 (031373・上田雅弘ゼミ・松山東雲高等学校)

 普段なにげなく見ているテレビ、両親との会話、友人とのおしゃべり。一見大したことのないと思われる言葉の裏に、実は社会問題が潜んでいる。
「なぜ男嫌いの女性タレントがいないのか?」
「なぜ男は女の意見を軽んじるのか?」
「結婚していない女性は社会的発言が認められないのか?」
タレントである遙洋子氏は、東大で上野千鶴子氏にフェミニズムを学び、これらの問題と対峙する。タレントと東大という両極から立体的に物事を見ていくのだ。

 女であるがために発言を抑制され、思ってもいない言葉を言わされる。私たちの見るテレビの中で、男嫌いの女性がいないのは、そう言わされるからなのだった。

 「議論で瞬時に相手にとどめをさすため」にゼミに参加するが、そこは答えのないところから答えを発見するという、いわゆる学問の戦場だった。右も左もわからないスタート地点から、大学で教鞭をふるうようになるまでの苦労、発見、矛盾、不安、喜び、感動。

 この本の中には、そこここに私たちが見落としてしまっている日本の大きな矛盾や間違いが転がっている。

 ある老人は、アメリカの若者に平気で国を代表して謝る。50年以上前の真珠湾攻撃のことを。「これが真実」と決めつけて語る姿は、一種の恐怖をも感じさせる。「なぜそう言い切れるのか?」遙氏は大量の文献を通して学んだ「物事は一概には言えない」ということを実際に経験する

 また、講義に参加していた一人の「好青年」が、「男女平等主義」を口にしながらも知らず知らずのうちに差別してしまっていることを上野氏に看破される様も、実にスリリングだ。数多くの挑戦者が、上野氏の論理の前に敗北していく。そのような実体験の間に、上野氏の著作からの引用が組み込まれている。それは読者の一つ一つの問いに対する答えにもなっていく。

 私が最も衝撃を受けたのは、「本能」と「身分」という言葉だった。母性本能というものがありながら、なぜ母親が子殺しをし、虐待をするのか。女は昔から、本能と身分という言葉で押さえつけられていたのだという事実が明らかになる。女は洗濯をし、食器を洗い、子を育てる身分なのだ。私たちの生活の中で当然のように使われている言葉が、こんなに恐ろしい意味を持っていたのだ。

 言葉とは何なのか。上野氏は言う。「言うに不足し、語るに余る」ものだと。言葉の戦法を教わっていく遙氏は、苦難の末ついには勝者へと勝ち進んでいく。「必要なのは話術と説得力と信憑性だ」と同時に、「勉学がすべての基礎になる」という。三年にわたり学問を続けた彼女は、突然感動を覚える。「学問で感動?」といぶかしがったのは私だけでなく、なによりも本人であった。

 それを機により多くの文献を読破していく。そこは学問に生きる者だけに許された、感動あふれる世界だったのだ。

 同じ国で、自立して戦う女性たちがいる。そこで私の知らないことを日々発見している。それにはもちろん苦痛を伴うこともある。しかし、わたしは羨ましさを感じてしまうのだ。媚びない、逃げない、負けない。こんな人たちもいたんだと、初めは驚いた。考えが片寄りすぎているとも思った。しかし、「物事はすべて一概には言えない」のである。私は「男は敵だと言っているけど、男性すべてが悪いわけじゃないと思うよ」と考えていたが、それは論理といえるものではなく、ただの信念だったと自覚する。「フェミニズムにとって男は敵だ」と上野氏は公言する。それに立ち向かう術を私は持たない。議論は信念を語る場ではないからだ。

 遙氏の「ケンカの十の戦法」は、すぐに利用できるものである。しかしそれは議論用の戦法であり、わたしが実生活で使ったら嫌われものになる可能性が極めて高かった。もちろんそこから学ぶものは多かった。この本は、わたしたちに疑問をもつことの重要性、勉学の必要性、世の中の矛盾などをテンポよく教えてくれる。「一緒に学ぶ」と言うほうが近いかもしれない。我々の視野を広げてくれる本だと言うことができる。

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