優秀賞 「親と子の[よのなか]科」
大野由衣 (041059・中嶋慎治ゼミ・南宇和高等学校)                   → 著者からのお返事!

現代の学校教育は、子供たちに新しい知識を教えあらゆることを学ばせ、勉強したことを記憶させている。このように、学校では正解を探すことを目的としているが、はたしてそれだけで良いのだろうか。著者は、「なぜ?」と考えさせることのほうが何よりも大事ではないか、と言う。本書は、ある親子の食卓での会話を例にして、日常の身近な話題から入り、物事を論理的に考えるクセをつけるための具体的な方法を提示しながら、「学力」や「生きる力」の本質に迫る話である。

親子で会話をする時、たいていの人は[よのなか]について話さないと、私は思う。親にとっては子供に[よのなか]を説明することは困難であり、また子供にとってはあまりにもかけ離れていて見当もつかない存在であるからだ。しかし、本書の中では子供の通う学校と父親の通う会社を比較しながら、上手く[よのなか]科を展開していく会話が成り立っている。例えば、父親が、「学校はどんなに通知表が悪くても学年は上がるよね。会社の場合、ほとんどみんなの級が上がって、お給料も上がるとしたらどうなると思う?」と子供に尋ね、子供は「頑張っている人もいやになる。」と答え、さらに父親が「で、会社はどうなる?」とまた問いかける。このように、1つの「どうなる」あるいは「なぜ」を解決すると、次の「どうなる」「なぜ」がでてくる。実は子供に「なぜ」「どうして」「どうなる」などを問いかけ、考える癖をつけるのが、親と子の[よのなか]科の狙いだと著者は言う。

「経済」や「経営」についても同じことなのだ。子供はお小遣いで好きなものを買ったり、母親と一緒に買い物に出かけたり。子供の生活は、意外とこうした子供なりの経済感覚に彩られているものである。ところが、一般の大人たちは、子供にはお金の話は早過ぎるという、何の根拠もない道徳観に縛られているため、かえって非常識な金銭感覚を持った子供を増産しているのかもしれない。だから子供と一緒に「経済」、つまり「モノの値段」について考えることも大切となるのだ。

本書の中に、「サンマの話」という題で家族が議論する場面がある。ここの会話では、「モノの供給と値段の関係」を主にし、夕食に出たサンマを例に、父親がサンマを獲りすぎると値段はどうなるか。またリンゴやキャベツは取りすぎた時は捨てることもある、それはなぜか。と質問することにより、子供は安く売った方がお金になるのに・・・。とか、父親が答えを言うことにより、でもジャムとかにしたらいいんじゃない、と自分なりの意見を話す。その続編として今度は「モノの需要と値段の関係」を主に父親が、生産量が同じでも値段が変わる場合があるのはどんな時か、など尋ね子供がいろいろ考えを述べる。

この地点で「需要」と「供給」の仕組みについて、子供と一緒に考えていけるのではないだろうか。子供にはお金の話は早過ぎる、というのは、大人たちが子供に対して説明するのが面倒なだけなのでは、と私は思う。

子供との会話で父親が意識していることは物事をあいまいにせず、できるだけキチンと調べる。知ったかぶりはしない。認識が違っていたときには、何故そうなのかをはっきりさせ、間違っていたらしっかり謝る、子供の仮説を決して否定しないということだ。調べ方としては、インターネットを使ったり、実際に足を使って体験したこともあったと言う。

実は「正解」よりも、「なぜ」を解決するためのこのような行動の方がずっと重要なのではなかろうか。子供は時々突飛なことを発言する。そういった疑問に付き合うのは、正直言って面倒極まりないが、ここが大事なところだということに、親たちは気付いているだろうか。もしも、「そんなことあるわけないだろ。」と一蹴してしまえば、萎縮してしまうかもしれない。そのロスは、彼らの人生全体に影響が及ぶほど大きいものなのだ。だから私たちは「子供の戯言」という見方でとらえるのではなく、真摯に付き合うようにしてみてはどうだろうか。そして、ときにその突飛な疑問を受けとめ、改めて考えることで、自分自身に物事の本質が見えてくることがあることも事実なのだ。

本書は子供の問いかけに対し、大人もわからなかったら一緒に調べ、また子供と真剣に向き合うことの大切さを教えてくれた。私たちが親になった時、私たちが子供の話に合わせるのではなく、子供たちを私たちがいる社会、つまり[よのなか]に合わせるように話してみてはどうだろうか。それはお互いが新たな発見をし、「なぜ」を追求することで「総合的な学習の時間」を育む要因になる、と私は思う。 

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